日本の城郭浪漫:受け継がれてきた歴史と四季の彩りを訪ねて

日本各地の古城が持つ歴史的価値と、四季の絶景・イベントを深掘りする城郭専門ガイド。

岡城跡の歴史と縄張り|「荒城の月」で知られる断崖の石垣城郭

日本各地の文化遺産の魅力を専門知見で正しく伝えます 文化財の価値を尊重し、多くの人に伝わる言葉で物語を紡ぎます

岡城跡とは?――断崖と石垣が生み出した山城

岡城が築かれた場所――天然の要害を利用した城

岡城跡は、大分県竹田市に所在する山城跡である。大野川の支流である稲葉川と白滝川に挟まれた舌状台地上、海抜325m前後の高所に築かれており、史跡指定範囲の実面積はおよそ100万㎡、東京ドーム約22個分に相当する広大な城郭である。

断崖に囲まれた岡城の地形

この台地は、阿蘇山の噴火に伴う火砕流が川に流れ込み、冷え固まってできた溶結凝灰岩からなる。川岸から切り立った崖がそそり立つ地形は、人工的な堀に頼らずとも敵の接近を阻む天然の要害であり、岡城の防御の根幹をなしている。

「難攻不落」とされた岡城

岡城が「難攻不落」と称されるようになった契機は、天正14年(1586)の豊薩合戦にある。ただし留意すべきは、この時点の岡城にはまだ現在見られるような石垣群は存在せず、土塁と空堀による土の城であったという点である。すなわち「難攻不落」の評価は、石垣以前にまず地形そのものによって成立したものであり、石垣による総構えの城郭が完成するのは、後述する中川氏入部以降のことになる。

岡城の歴史――伝説の城から中川氏の居城へ

源義経を迎えるために築かれたという伝承

岡城の築城については、文治元年(1185)、大野郡緒方荘(現・豊後大野市)の武将・緒方三郎惟栄が、兄頼朝と不和になった源義経を迎え入れるために築いたとする伝承がある。もっとも、これは同時代の史料によって裏付けられたものではなく、あくまで後世に語り継がれた伝承の域を出ない。惟栄自身も義経を迎える前に捕らえられ、上野国沼田荘へ配流されたと伝わっており、築城と義経招請の実態については史料的制約が大きい点に留意しておきたい。

志賀氏と岡城――戦国時代の豊後

『豊後国志』によれば、豊後守護大友氏の支族である志賀貞朝が、旧堡(古い砦)を修復・拡張し「岡城」と称して居城としたとされる。志賀氏が直入郡(現在の竹田市域)へ進出したのは応安2年(1369)頃とみられ、岡城が志賀氏の居城として機能し始めたのもこの応安2年以降と考えられている。

島津軍の侵攻と岡城

天正14年(1586)の豊薩合戦では、薩摩・島津氏の大軍が岡城に来襲した。当時の城主はわずか18歳の志賀親次であったが、島津軍の3度にわたる攻撃をことごとく撃退し、豊臣秀吉から感状を与えられている。この戦功により、岡城は「難攻不落の城」としてその名を広く知られることとなった。

中川秀成の入部と岡城の大改修

文禄2年(1593)、大友義統が領地を没収されて豊後を去ると、これに伴い志賀親次も岡城を退去した。翌文禄3年(1594)、播磨三木城(兵庫県三木市)より領地替えとなった中川秀成が豊後岡へ入部し、以後、岡城は中川氏の居城として大きく姿を変えていくことになる。

中川氏によって生まれ変わった岡城

1594年、中川秀成が岡へ入部

中川秀成の岡入部は、単なる城主交代にとどまらず、岡城の構造そのものを一新する転機となった。志賀氏時代の土の城を土台としながらも、秀成はここに近世城郭としての大改修を加えていく。

山城から近世城郭へ――総石垣化された岡城

志賀氏統治下の岡城は、土塁と空堀を主体とした戦国期の山城であった。中川秀成は、島津氏撃退でも証明された堅固な地形を土台としつつ、文禄3年(1594)から慶長元年(1596)にかけて普請を行い、これを総石垣造りの近世城郭へと大改修した。

本丸・二の丸・三の丸・西の丸の整備

この普請により、本丸をはじめとする主要な曲輪や、大手門などの登城口が慶長元年(1596)までに完成した。さらに寛文4年(1664)には、3代藩主中川久清の隠居所として西の丸御殿が完成し、以後増改築を重ねながら城内最大の曲輪へと拡張されていった。

岡城が岡藩の政治・行政の中心となるまで

城内には総役所と呼ばれる行政・裁判機能を担う施設が置かれ、藩内の諸案件を処理していた。当初は本丸周辺が中心であった政務機能は、時代が下るにつれて西の丸へと集約されていき、西の丸は御殿・馬場・庭園を備える岡藩政治の中心地となった。

岡城の石垣――断崖と一体化した巨大な城郭

なぜ岡城にはこれほど石垣が築かれたのか

中川秀成による大改修の目的は、単なる防御力の強化にとどまらない。断崖絶壁という天然の要害を土台に石垣を築き上げることで、藩主の権威と岡藩の石積技術の高さを内外に示す狙いもあったと考えられる。

断崖を利用した石垣と防御構造

城内の曲輪、門跡、櫓台はすべて石垣によって構築されており、中でも主郭部・三の丸北側から二の丸にかけて断崖上に連なる高石垣は、岡城の石垣群の中でも規模・壮大さの点で特筆される。三の丸の高石垣は屏風のようにジグザグの形状をしており、これは2方向から矢を放てるようにした「横矢掛り」と呼ばれる防御構造である。

高石垣が生み出す岡城独特の景観

建物をすべて失った現在の岡城において、石垣は往時の大城郭の規模をうかがい知るほぼ唯一の手がかりとなっている。大手門周辺に見られるアーチ状の石垣や、大手道に残る通称「かまぼこ石」など、他の城郭ではあまり類例のみられない意匠も残されている。

石垣から読み解く岡城の縄張り

岡城の石垣には複数の築造技法が確認できる。石材の加工度による分類では、自然石をほぼ加工せず用いる「野面積み」、接合面を多少加工する「打込接ぎ」、石を整形し隙間なく積む「切込接ぎ」があり、岡城では打込接ぎ・切込接ぎが多く用いられている。特に太鼓櫓門では、2m前後の巨石が切込接ぎによって隙間なく積まれており、岡藩の石積技術の高さを示している。積み方による分類では、不規則に積む「乱積み」、石を横一直線に積む「布積み」、斜めに積む「谷積み」があり、岡城では布積み・谷積みが主体で、隅角部には「算木積み」が施されている。このほか、権威の誇示を目的として一際大きな石を埋め込む「鏡石」が大手門・太鼓櫓門で、石工の印とみられる「刻印のある石」が本丸・近戸門周辺の石垣でそれぞれ確認できる。

岡城の縄張りを歩く――巨大な城郭に残る遺構

大手門跡――岡城への入口

大手門は城の正面玄関であると同時に防御施設でもあり、石垣上に渡された櫓から敵を攻撃できる構造になっていた。現存する石垣や礎石、車敷の跡から、往時の大手門の規模をうかがうことができる。

三の丸・二の丸――連続する曲輪と石垣

三の丸は他藩からの使者や家臣が藩主と対面する場であったとされ、現在は3代藩主に藩政の指南を行った熊沢蕃山や、幕末の勤王の志士・小河一敏など岡藩ゆかりの人物の顕彰碑が建てられている。二の丸には月見櫓や御風呂屋など特徴的な建物があり、来客の歓迎や藩主の遊興の場として用いられた。二の丸入口付近にある空井戸跡は、当初から水がなかったとされ、抜け道や財宝隠しにまつわる伝説が残る一方、江戸期の記録では深さ60mに及んだとされている。

本丸跡――岡城の中心部

本丸は岡城の中でも最も重要な曲輪であり、中央には藩主の住まいである本丸御殿が置かれていた。これを取り囲むように、天守に相当する御三階櫓のほか、角櫓・多聞櫓・金蔵などが配置されていたと伝わる。

西の丸――藩主の居所となった曲輪

西の丸は3代藩主中川久清の隠居所として整備された曲輪で、御殿のほかに馬場や庭園も設けられ、城内で最も広い曲輪となった。前述の通り、時代が下るにつれて政務機能もここへ集約されていった。

清水門跡など城内に残る遺構

清水門は、藩主が稲葉川のほとりに設けた休息場・河内谷御茶屋へ向かうための門である。対岸の岩壁には三日月形を彫った「三日月岩」があり、藩主はここに明かりを灯して月見を楽しんだと伝わる。このほか、中川氏入部以前は大手門として使われていたともいわれる下原門跡(東側石垣には石材のずれを防ぐ「千切」という珍しい技法が用いられている)、家臣や領民の日常的な出入り口であった近戸門跡(城下町へ続く「七曲り」の坂道が接続する)、家老を務めた古田重則の家系の屋敷跡である中川覚左衛門屋敷跡、3代藩主の息子の家系にあたる中川民部屋敷跡など、曲輪以外の遺構も豊富に残されている。

江戸時代の岡城と廃城

岡藩中川氏の居城として続いた岡城

文禄3年(1594)の入部以来、中川氏は13代・約280年にわたって岡藩を治め、岡城はその居城として機能し続けた。

明和8年の大火と城の再建

明和8年(1771)、本丸・西の丸・御廟などを焼く大火が発生し、城の大半を失う被害を受けた。安永3年(1774)には本丸御三階櫓が、安永8年(1779)には西の丸御殿がそれぞれ再建されている。岡城はこのほかにも寛政の大火や嘉永の大地震など、火災・風水害・地震による被災とその都度の復旧を繰り返しながら維持されてきた。

明治維新と岡城の廃城

明治7年(1874)、廃藩置県により13代280年続いた中川氏が東京へ移住し、廃城令に伴って城内の建造物はすべて取り壊された。現在の岡城には天守や櫓などの復元建造物は一切なく、地上に残るのは石垣と地形そのものである。

現在まで残された石垣と城跡

建物を失って以降も、往時の隆盛をしのばせる石垣は今日までそびえ続けている。昭和11年(1936)12月16日、「岡城跡」として国の史跡に指定された。

「荒城の月」と岡城――瀧廉太郎が見た城

瀧廉太郎と岡城

作曲家・瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、当時すでに廃城となっていた岡城で遊んだとされる。

「荒城の月」と岡城の関係

明治34年(1901)に発表された「荒城の月」は、作曲を手掛けた瀧廉太郎が、少年期に登った荒れ果てた岡城の印象から着想を得たと伝えられている。ただし作詞を担当した土井晩翠は会津若松城をイメージしていたとされており、両者の故郷や関わりの深い城が異なる点には注意が必要である。すなわち「荒城の月」は、作詞・作曲それぞれの原風景が異なる城に由来する作品であり、岡城は主として作曲面でのゆかりの地として位置づけられる。

岡城に残る瀧廉太郎ゆかりの場所

城内には瀧廉太郎の銅像がある。これは昭和25年(1950)、少年期の廉太郎と同じ学校に通っていた彫刻家・朝倉文夫の手によるもので、朝倉が学校の裏手にあたる岡城で廉太郎が尺八を演奏していた思い出を振り返りながら制作したという逸話が伝わっている。

岡城跡から望む豊後の山々

岡城から眺める阿蘇・くじゅうの山々

台地上に築かれた岡城跡からは、阿蘇山やくじゅう連山を望むことができる。

 

城跡から楽しむ四季の風景

春は桜が見頃を迎え、毎年4月には大名行列や甲冑武者行列を伴う「岡城桜まつり」が催される。夏は緑と石垣の対比が際立ち、秋は紅葉が曲輪を染める。冬は石垣がもっとも際立って見える季節とされ、積雪した石垣の姿が見られることもある。

景観もまた岡城の魅力

断崖・石垣・周囲の山並みが一体となった景観は、岡城が単なる遺構の集積ではなく、地形と人工物が不可分に結びついた史跡であることを示す要素の一つといえる。

岡城跡を訪ねる前に知っておきたいこと

岡城跡の見学時間・入城料

入城受付時間は9:00〜17:00で、12月31日〜1月3日は休城日となる。入城料は高校生以上300円(20名以上の団体は200円)、小・中学生150円(同100円)。発行日から1年間有効な年間城主パスポート(高校生以上3,000円、小・中学生1,500円)もあり、特典として特別仕様の御城印が1枚進呈される。

岡城跡へのアクセスと駐車場

駐車場は一般車両140台、バス9台分が用意されており、無料・予約不要で利用できる。自家用車で岡城跡内へ進入することはできず、岡城料金所から先へ通行できるのは通常、地元車両と関係車両のみに限られる。期間限定(現在は主に春・秋)で、料金所から城内の東中仕切までを結ぶ無料の登城バス(ハイエース、9人乗り、介助者同伴での車いす運搬可)も運行されている。

岡城跡を歩く際の注意点

岡城跡の石垣上には柵が設けられていない。石垣の縁に近寄って下をのぞき込むなどの行為は滑落の危険があり、実際に滑落事故も発生している。特に雨天とその翌日は石段・坂道が滑りやすくなるため注意が必要である。大小の石や切株、木の根、地面のくぼみによる転倒にも留意したい。史跡の性質上、車いす利用者にとって見学が難しい箇所も多く、エレベーターや手すり等の設備は十分に整っていない。このほか、瓦等の遺物の持ち帰り禁止、史跡内の禁煙・火気使用禁止、ドローン使用の原則禁止(撮影目的の場合は事前申請が必要)など、史跡保護のための諸注意が定められている。

まとめ――岡城跡は「地形と石垣を読む城」

岡城跡の本質的な魅力は、天守や御殿のような目に見える建造物にではなく、断崖という天然の地形と、それに一体化するように築かれた石垣の関係性そのものにある。明治7年(1874)の廃城令によって城内の建造物はすべて取り壊されており、現在の岡城には復元された天守や櫓は一切存在しない。今日目にすることのできる石垣・曲輪・地形は、いずれも中川氏統治下に築かれ、あるいは志賀氏以前から利用されてきた遺構そのものであり、その意味で岡城跡は、建物ではなく地形と石垣を読み解くことによってはじめてその歴史と防御思想を理解できる城跡だといえる。

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