小倉城跡とは
交通の要衝に築かれた小倉城
小倉城は、現在の福岡県北九州市小倉北区に築かれた平城である。九州と本州を隔てる関門海峡に面し、古くから陸海交通の結節点として重視されてきた立地に築かれた。海と川を天然の防御線として取り込んだ縄張りは、単なる軍事拠点にとどまらず、九州における政治・交通の要としての性格を色濃く持つ城であった。
現在の小倉城跡に残る城郭遺構
現在、往時の城郭建築のほとんどは失われており、地上に残るのは堀と石垣の一部にとどまる。本丸一帯は勝山公園として整備され、市民の憩いの場となっている一方、天守閣は昭和期に再建されたものであり、江戸期の姿をそのまま伝える建造物ではない。まず、現存する遺構と再建された建造物とを区別して見ていくことが、小倉城跡を理解するうえでの前提となる。
細川忠興が築いた小倉城
細川忠興による築城
小倉の地に城が置かれたこと自体は、細川忠興以前に遡る。戦国末期、九州平定や肥後国人一揆鎮圧の功により豊前国小倉領を拝領した毛利勝信(森勝信)が、この地に城を築いたのが小倉城の起源とされる。もっとも、この段階の城郭は後の規模には及ばなかったと見られている。
現在知られる小倉城の姿を形づくったのは、関ヶ原の戦いののちにこの地に入った細川忠興である。中津城から居城を移すため、慶長7年(1602年)に築城を開始し、7年の歳月をかけて近世城郭として大規模に修築・完成させた。天守や櫓を整備し、城下町とあわせて整えたのがこの時期である。したがって「細川忠興が築いた」という表現は、正確には「近世城郭として完成させた」と理解するのが史料に忠実である。
城下町と一体となった巨大な城郭
細川忠興が完成させた小倉城は、紫川を天然の堀として取り込み、城下町を東西に分ける形で一体的に整備された総構えの城であった。往時には大天守・小天守のほか、平櫓117、二重櫓16、櫓門12を数えたと伝えられ、その規模は西日本でも屈指のものであったとされる。
小倉城の特徴
「唐造り」と呼ばれた天守
往時の小倉城天守は、最上層の入母屋破風を除いて破風を持たず、4階と5階の間に屋根の庇がなく、5階が4階よりも大きく張り出す独特の構造を持っていた。これは「唐造り」(南蛮造り)と呼ばれる形式で、高松城や岩国城の天守にも見られたが、いずれも現存していない。
野面積み・乱積みの石垣
築城当時のまま残る石垣は、自然石をほぼ加工せずに積み上げる「野面積み」の技法によるもので、隙間や出っ張りが目立つ反面、排水性に優れ頑丈であるという特徴を持つ。石材の多くは近郊の足立山から運ばれたとされる。
海と城が一体となった「海城」
小倉城は本来、海に面して築かれた城であり、日本最大級の「海城」であったとされる。現在は埋め立てなどにより往時の海岸線を直接確認することはできないが、海運と一体化した縄張りであった点は、小倉が交通の要衝として機能した理由の一端を示している。
小倉城の復興天守――なぜ現在の姿になったのか
創建時の小倉城天守はどのような姿だったのか
細川忠興によって築かれた創建時の天守は、前述の「唐造り」を特徴とする独自の意匠を持つものであった。しかし、その外観の詳細を伝える一次史料は限られており、細部まで正確に判明しているわけではない。
1837年の火災で天守を焼失
天保8年(1837年)、小倉城内から出火し、天守はこのとき焼失した。以後、江戸時代を通じて天守が再建されることはなく、小倉城は天守を欠いたまま城郭としての機能を維持し続けた。
1959年、市民の熱意によって天守が再建される
天守を欠いた状態が長く続いたのち、昭和34年(1959年)、市民の熱意を原動力として天守が再建された。これが現在私たちが目にする小倉城天守である。
現在の天守は江戸時代の姿を忠実に復元したものではない
天守の分類には、江戸期以来現存する「現存天守」、史料に基づき忠実に復した「復元天守」(木造復元・外観復元)、かつて天守があった場所に建てられたが史料不足のため当時の外観を正確に復元していない「復興天守」、史実に存在しなかった天守を建てた「模擬天守」の4種がある。小倉城の天守はこのうち復興天守に分類され、大坂城や小田原城の天守と同じ位置づけにある。すなわち、現在の白亜五層の天守は、往時の外観を史料的に厳密に再現したものではなく、あくまで昭和期の再建にあたって構想されたイメージに基づく建造物である点は、押さえておく必要がある。

小笠原氏の時代と小倉城
1632年、小笠原忠真が小倉藩主に
細川氏が肥後熊本へ転封となったのち、寛永9年(1632年)、細川家と姻戚関係にあった播磨国明石の小笠原忠真が小倉に入った。忠真は徳川家康の曾孫にあたり、その名の「忠」は徳川秀忠から授かったものとされる。小倉藩は15万石を領し、以後、幕末に至るまで小笠原家が城主を務めることとなった。
九州の交通・政治の拠点となった小倉
小笠原氏統治下の小倉藩は、九州各地へ通じる街道の起点として重要な地位を確立した。九州における譜代大名の拠点として、西国大名を監視する役割も担っていたとされる。
小倉城下町の発展
この時代、剣豪・宮本武蔵の養子である宮本伊織が小笠原家に仕官し、武蔵自身も城下に7年ほど暮らしたと伝えられる。城下町は武家地と町人地とに分かれて整備され、藩政の中心として発展していった。
幕末、小倉城は自ら焼かれた
長州征討と小倉城
幕末、幕府による第二次長州征討(長州征伐)に際し、小倉藩はその最前線拠点としての役割を担うことになった。
1866年の小倉戦争
慶応2年(1866年)、長州藩の攻撃を受けた小倉藩は奮戦したものの、他藩からの十分な援護を得られなかった。
小倉城の焼失
劣勢に立たされた小倉藩は、田川郡への撤退にあたり、みずから城に火を放った。この際、太鼓櫓にあった大太鼓を長州軍・奇兵隊が持ち帰り、厳島神社に奉納したと伝えられ、この太鼓は現在も同神社に現存している。すでに天守を欠いていた小倉城は、この自焼によって主要な建造物の多くを失うこととなった。
現在の小倉城跡を歩く
天守と本丸周辺
現在の天守は前述の通り昭和34年再建の復興天守であり、内部は博物館として整備されている。本丸周辺は勝山公園として整備され、堀に面した天守台の石垣を間近に見ることができる。
残された石垣から城の姿を想像する
建造物の大半が失われた現在、往時の城郭の規模を伝えるのは主に石垣と堀である。野面積みの石垣を丹念にたどることで、かつて平櫓117、二重櫓16、櫓門12を数えたという広大な城郭のスケールを推し量ることができる。
城跡から見る現在の小倉
城跡周辺は、鉄と石炭で栄えた工業都市として発展した北九州市の中心市街地となっている。かつて海に面していた「海城」の記憶は市街地の下に埋もれているが、紫川をはじめとする地形には、その痕跡をたどることができる。
小倉城跡を訪ねて分かること
天守だけでは分からない小倉城のスケール
現在の天守は五層の建造物として存在感を放っているが、それは往時の小倉城のごく一部に過ぎない。大天守・小天守に加え、100を超える櫓が城郭を取り囲んでいたことを踏まえれば、天守単体の見た目からは想像しにくい規模の城であったことが分かる。
復興天守と歴史的遺構を分けて見る
小倉城跡を訪れる際には、昭和期に再建された復興天守と、野面積みの石垣や堀といった江戸期以来の遺構とを区別して見る視点が欠かせない。前者は現代の構想によるシンボルであり、後者こそが細川忠興以来の築城の痕跡を今に伝えるものである。この違いを踏まえることで、小倉城跡はより重層的な歴史の場として見えてくる。
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